真夜中の隣人
一
「ただいまー。」
がちゃりと、錆びたノブを回し古めかしいドアを開けると、しゃもじが飛んできた。
想定済みのことであったので、佐助はなんなくそれを受け止めた。
「いきなり、これはないんじゃない?」
玄関前で仁王立ちしている人物に、そう小さく抗議するがHA、と鼻で笑われた。
「Shut up。何でも言うが、ここはお前の部屋じゃねぇだろう。」
「うん、まあそうなんだけどね。」
若い管理人に独眼で睨まれ、ぽりぽりと鼻の頭をかきながら、佐助はへらりと笑った。
猿飛佐助、彼女いない歴三ヶ月が三ヶ月前に住みだしたのは、時代錯誤のオンボロアパートである。
見た瞬間思わず回れ右をして帰りたくなるほどの荒廃ぶりだがその分家賃は安く、懐具合の加減で、仕方ナシに入居を決めた。
近所でもお化けアパートと評判のそこに長居するつもりはさらさらなく。
正直パチンコで適当に稼いだらおさらばするつもりだったが、気がつけば三ヶ月。
何の因果か未だこのボロアパートにいる。
引っ越す予定は、まだない。
「今日はお土産あるんですけど。」
「ビールはまだあるからいい。」
それは二日前に佐助が持参した貢物である。
「肉。」
一応タイムセールスで半額になっているが、黒毛和牛しゃぶしゃぶ用一キロ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・鍋にするか。」
「賛成。」
ほぼ日常となった入り口でのやりとりである。
くるりと背を向け、部屋の中に戻っていく少年の後にスーパーの袋を下げた佐助が続いた。
「政宗ちゃん、ただいま。」
ふと、もう一度、言ってみた。
他愛もない挨拶。
「ちゃんづけするな。」
そういいながらも、本当に小さな声で「おかえり」というのが聞き取れたから。
へらりと、いつも張り付いた軽薄な笑いが、一瞬だけ本物に変わった。
二
管理人室の八畳間の和室には蜜柑が完備された炬燵、古いテレビ、出しっぱなしのプレステ。
家具らしいものなどは他にない。
炊事場で夕食の下ごしらえをした後、二人は炬燵に足をつっこんで冬季五輪を見ていた。
佐助が剥いた蜜柑を、政宗が横から食べていく。
甘いものが大して好きではないくせに、蜜柑を常備し、むくと食べる。
一度理由を聞いてみたところ、「冬場に炬燵に蜜柑は日本人として必須」というわかるようでわからない答えが返ってきた。
どうやら、好き嫌いを越えたところにある、はずせないものらしい。
「んー、お腹すいたなー・・・」
壁かけの骨董時計を見ると針は八時を示していた。
そろそろ、他の連中も帰ってくる時間だろう。
「そろそろ幸村も帰ってくるよねー。」
「だろうな・・・・・・・」
幸村とは二階に住んでいる高校生だ。
この昭和骨董アパートの二階の住人は現在、幸村と佐助の二人だけである。
一階には管理人室に政宗、そのむかいの部屋に長宗我部、その隣に毛利という青年が住んでいる。
それが、アパートの住人である。
「ただいまでござるー!」
噂をすれば、というのか、アパートの引き戸の開く音と共に元気のいい声を張り上げて、幸村が帰宅を告げる。
彼の部屋は二階だ。
だが、いつも真っ先に来るのは、何故か管理人室で。
「政宗・・・・と佐助も帰ってきていたのか。」
「おかえりー、今日は鍋だよー。」
「入り口の扉、つぎ壊れたらお前が直せよ。」
「ん、承知した。」
少しだけすまなさそうな顔をするが、多分明日には忘れてまた同じことを繰り返すだろう。
ゆえに鳥頭だのなんだのと、散々政宗に悪態をつかれるのだが、本人はいたって気にしていない。
「とりあえず、着替えてきなよ。おなかすいたでしょ?」
「ああ。ぺこぺこだ!」
笑顔全開。そのまま走っていく幸村を見送って、政宗が呟いた。
「つーか、ここは飯屋じゃねーぞ。」
すでに日常となっているが、各自の部屋には一応簡易キッチンがあるはずだ。
このアパートは当然のことだが、三食付ではない。
だが、気がつくとアパートの住人は管理人室で食事を食べるのが当たり前となっていた。
佐助にも、政宗がつい文句を言いたくなる気持ちがわかる。
わかるが。
彼は知っている。
ちらりと台所に目をはしらせ、緩みそうになる頬を押さえた。
口では何を言っていても、炊飯器には、いつも五合の米が炊かれているのだ。
明らかに一人分ではない。
「まあまあ、いいじゃない。」
「・・・・・・・・・。」
睨まれても怖くはないが、勿論それは言わない。
さすがに刃物がとんでくるのはご免だった。
林檎を剥き始めた彼の手には果物ナイフがある。
三
「腹がすいたでござる。」
「そうだねー。でももうちょっと待とうねー。」
「元就八時には帰ってくるっていっていたからな。それまで蜜柑でも食ってろ。」
そういって佐助が剥いた蜜柑を幸村の口の中に押し込んでやる。
突然の行為に目を丸くし、政宗の顔を見つめるが、何とか蜜柑を飲み込んで、彼の手首をつかんだ。
指を口内からだし、そのまま舌を這わせた。
―――――どこのAVですか。
親指と人差し指をなめ、中指までなめると、顔をあげる。
「政宗殿は蜜柑の味がする。」
「だからって人の指まで食うなよ。」
お前なら食いそうだ、と何の含みもなしに真顔で告げられ、対応に戸惑うのは当の幸村だった。
援軍を請うような目で見られても、佐助は苦笑するしかない。
お手上げだ。
相変わらずその辺りのことに関しては疎すぎる政宗に懸念をいだいてはいるものの、それと同時に安堵しているのも事実なのだから。
まだ若く青春真っ盛りの幸村にはおそらく辛いことだろうが。
もうちょっと技術を磨きましょうね。
今日のところは諦めなよ、と目で意思を伝えると、それを正確に読み取った幸村はがっくりと炬燵机に懐いた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・?」
政宗はその幸村を呆れたように見ていたが、舐められた自分の指をじっと見つめ、何を思ったのかそれを口に含んだ。
「へ?」
赤い舌、それ自体が生き物のように動いて、白い指をゆっくりと舐め上げる。
いやに鮮明にその光景が網膜に焼きつくのはどういうことだろうか。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
エロ。
隣の幸村を横目で見ると、予想通り、その光景に目を奪われている彼がいた。
頬が見る間に赤く染まり、顔全体、耳まで広がっていく。
鼻血五秒前。
この後の惨劇を想像すると、笑うしかない。
「・・・・・・・・・で、政宗ちゃんは何やってるの?」
「いや、甘いのかと思ったけど、甘くなかった。」
幸村の奴がおかしいんだ。と断言する政宗の言葉はおそらく幸村には届いていないだろう。
必死で彼は鼻血をこらえ、ティッシュペーパーを探している。(部屋を血で汚したら一週間立ち入り禁止が厳命されているのだ)
ごめん、幸村。否定できないわ。
「それに甘いんならお前の方が甘いんじゃねーの?」、
蜜柑、むいたのお前だし。
真顔で言う政宗に、一言言わずにはいられないが。
やはりそれは心の中に留めておく。
頼むからそういうことを不意打ちで言わないでください。
四
流れるネオンサインを車窓からぼんやりと見つめ、ぼんやりと思い出すのは、仕事関係でもなく、女のことでもなく、あの古い今にもぶっ壊れそうな昭和の遺物であるアパートのことで。
我ながら色気がないどころか、何の欲得もないことだ。
自分は無欲などではない。
むしろ欲望ならば人よりも強い。
悪いものにどうにも強く惹かれ、そしてそれに抗うようなモラルなどは持ち合わせがない。
だから、自分の周りはそういったものでいつも溢れかえっている。
それなのに。
あの逆さに振っても何もでないようなあのボロ家。
ご近所でも評判の幽霊アパート。
住人は一癖も二癖もある野郎ばかりでむさ苦しいことこの上ない。
管理人は間違っても裸エプロンなどしてくれそうもないクソ生意気なガキ(性別オス)。
自分があそこに留まり、あまつさえ執着さえしている理由はどこにもないはずだ。
胸ポケットから携帯の着信音。
・・・・・・・・・・・・・・・・・鉄人28号。
心の底から部下が居なくてよかったと胸を撫で下ろす。
『あ、元親の旦那?』
冷たくきつい少年の声ではなく、人当たりのよさそうな若者の声。
また今日も管理人室に入り浸っているんだろう。
「おう、つーか携帯の着信音勝手に変えるな!!!」
『えー、それ俺じゃなく、政宗ちゃんか幸村に言ってよ。』
「きかねーだろうが、あいつら。それにガキの躾けはお前の仕事だろうが。」
『あのね、俺は母でも父でもないんだけどね?』
「何言ってやがる、今更。で、何のようだ?」
『あー。元親の旦那、今日夕飯は?』
「そっちで食う、そうだな、あと、五分くらいだ。」
『あ、じゃあ、醤油買ってきて。普通の。』
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
俺は、一応、ここらではそれなりに名が売れていて。
眼光一つで、部下は怯え、チンピラどもは恐れをなして道をあける。
高いマンションも高級車も手にしたし、電話を待っているいい女も片手では足りないくらいいる。
それなのに。
五分後、コンビニの前に止められた高級車から降りてきた長身の男は、不機嫌そうな表情をあらわに、醤油を手にし、店員は怯えと強烈な違和感に襲われながら自己最高速度で会計を済ませた。
五
ぼろアパートの前に、場違いな高級車がとまるのは最早日常で。
吹き溜まりのエアポケットのようなそこには、むしろ似つかわしい違和感なのかもしれない。
ガラガラと、たて付けの悪い引き戸をあけ、元親が向かう先は自室ではなくその向かいの管理人室だ。
八畳の部屋には、彼をのぞく住人が全員集まっていた。
狭い部屋に人が密集している、加えてすべて男、つまりは非常にむさくるしい。
管理人の姿がないのは台所にいるからだろう。
「「お帰り。」」
「おそいぞ。貴様はたかだか醤油を買うのにどれほどに時間をかけておる。」
若干一名ほど非常にむかつく男がいるが、一々気にしていたらきりがない。
などと元親が思えるわけがなく。
「うるせーよ、元就。てめーなんか醤油一つ買えないくせによぉ。」
「我を愚弄するか。」
「はん、事実だろうが。」
事実である。
少し前に政宗に醤油を買って来いといわれ、元就が買ってきたのはうすくち醤油だった。
ちなみに幸村も同じことをした。
その所為で買出しは常に佐助か元親の役割になってしまったのである。
文句の一つや二つ、言うのは仕方がないことだろう。
「貴様・・・。」
ぎろりと、元就が睨め上げる。
ただし炬燵の中から。
冬でなければ、「表へ出ろ」「望むところだ」ということになるのだが、二人揃って極度の寒がりのためそこには至らない。
「お前ら喧嘩するなら寒中アイスクリームの刑だからな。」
タイミングよく、台所から鍋を持って現われた政宗にそう宣言され、双方不満そうな顔で黙り込む。
ちなみに寒中アイスクリームの刑とは、外で薄着のままアイスクリームを1ℓ食べなければ締め出されたままという過酷なものである。
甘味好きの幸村以外には二重の意味でおそろしい罰だ。
「ほら、元親の旦那も、さっさと座って。皆待ってたんだよ。」
「そうでござる。政宗が元就と元親が帰ってくるなら待っていろというので。」
「・・・・・・・・・・・・そりゃあ悪かったな。」
時刻を見れば、八時はとうに過ぎている。
佐助や元就はともかく、育ち盛りの幸村や政宗には少々厳しかっただろう。
しかし。
今更だが、何気に可愛いところがあるガキだ。
普段はクソ生意気で、殴ってやろうかと拳を固めることもあるのだが。
鍋をコンロにセットして、適当につまみを並べる政宗を見てしみじみと思った。
冷えたビールが出てくるにいたって思わず目を細めてしまう。
そうしていると、いつでも嫁にだせるような、いや入り婿の方がいいか・・・・・いや違うだろう俺。
「何呆けてるんだ、元親。」
となりに座った政宗が不思議そうに元親を見る。
そうしていると、年相応のあどけなささえ感じる。
「何でもねーよ。」
やっぱ嫁にやるのは当分先だ。
「でっかくなったなー。」
「小さくなったら困るであろう。」
「うるせーよ、てめぇはいちいちムカつくんだ、元就。」
「貴様もな。」
「どちらにせよ、お二人とも親父くさいでござるな。」
笑顔だけはどこまでも無邪気な真田幸村の一言に、十代と二十代の壁をあからさまにされ、凍りつく。
――幸村の旦那、それはちょっと言ってはいけない一言だよ・・・・・・
そう思いつつ、鍋奉行と化した佐助は、せっせと政宗に餌を運んでやるのであった。