春水 Spring has come
コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ
襖を開け放ち、傾く月とおぼろな夜桜を肴に杯を重ねる。
手酌で酒をなみなみと注いだ杯に、今は盛りの花びらが舞い落ち、小船のように浮かんだ。
思えばこれまでの人生、酒と戦ばかりである。
何よりどちらも悪い事、だ。
そして悪い事ほど魅力的なのが人の世と性よ。
だが、それこそが我が人生、武士であり、願わくば死ぬまでそうでありたい。
日ノ本の国、その最南端を統べる鬼島津。
「くっはー・・・。」
その顔よりも大きな朱杯をあけ、満足そうに息を吐いた。
「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」
漢詩をそらんじ、再び酒瓶を取り上げる。
朱塗りの杯と揃いのそれには金の蒔絵があしらってある。
馥郁とした酒の香りを楽しみながら、最後の一滴までそそぐ。
ふと、庭先に現われた小さな影に、雷神のように厳つい貌をほころばせた。
「何処にいっておいもした。」
彼はそれに応えず、ふわりと体重をまったく感じさせない動きで、縁側にあがる。
島津の巖のような巨躯に甘えるように身をすり寄せ後、胡座をかいた島津の膝の上にのった。
いつになく、素直に甘える仕草に、老雄は目を細くした。
「今日は甘ゆっね。いけんした。」
ゆっくりと長い年月剣を振るい続け、皮膚が固くなった無骨な手が、彼の背を撫ぜる。
たどたどしくも優しいそれに、彼は目を閉じて身を任せた。
やわりとした、今にも握りつぶせるような、小さな命の生き物。
「政宗。」
背を、撫でていた手をとめ、静かな声をかけた。
「・・・・・・・・・・・何だよ。」
折角気持ちがよかったのにと拗ねたように、それでも身を起こす彼が、島津は可愛くて仕方がなかった。
クシャリと小さな頭を撫でてやると、やめろよ、と甘い声が文句を綴る。
手にした杯を脇において、そっと両手で抱き上げた。
だらりと無防備に四肢をのばして、島津の手にぶら下げられたまま、政宗は小首をかしげた。
ゆらりゆらりと尻尾が揺れている。
小さな、小さな猫だった。
本当は両手で抱き上げなくても、片手で足りるような、小さな身体。
人語を操り、雷を纏う霊猫。
右目の傷は痛ましいばかりだが、十分に愛らしい顔をしている。
黒と見間違うばかりの深い藍色の毛並はビロウドのような手触りだった。
瑠璃色の宝玉のような瞳は、人外の魔とするにはあまりにも、やわらかだ。
出会った時は、荒んだ目で、啼いていた。
皮膚も毛並もボロボロで、触れなば引き裂かんとばかりに近寄るすべてを拒絶し、恐れていた。
そういう島津の方も、敗戦逃亡中の弓傷刀傷を負った身で。
雨の山中で濡れそぼる身体を引きずり、互いに瀬戸際に立つ身で出遭ったのだ。
―――――生まれは奥州。
妖かしの毒で皮膚と目が焼かれ、醜くなった自分を、主は「汚らわしい」と払いのけた。
『猫』の身でありながら人語を覚えた自分を、主は「化け物」と城から放り出した。
ただ、それだけの話だ。
多くを語らぬ幼い猫は、「政宗」という名とそれだけを言葉少なに告げた。
ひどく渇いた言葉に、胸が痛むのは年をとったからではなく。
生れ落ちて一年という猫の幼さにでもなく。
溢れる何かを自分に許さぬという猫の気構えに打たれたからだ。
だから、共に行こうと誘った。
それは口にすれば至極の当然のことと思われた。
家臣の中には化け猫を傍に置くなど、と言う者もいたが、武士として戦場にたつこと数十度、 奪った命も、浴びた血潮も量りかねるこの業深い身。
何よりも、恐ろしいのは妖ではなく、人の業だと知る爺には、通じぬ言葉だった。
気遣いは受け取るが、言葉は翻さぬと言明し。
人語を解するならば、互いに伝えられるものもあると、季節の一巡を見たならば、次はともにそれを味わおうと、攫うように戸惑う仔猫を肩に乗せ、半ば無理やり連れ帰った。
小さな爪が、落とされないよう、肩にたてられる様が胸を疼かせた。
それから一人と一匹は共に暮らし始めた。
「爺。」
「花見にいっておいもしたか。」
「?何でわかるんだ。」
笑って、首の後ろについていた薄紅の花びらを見せてやる。
ぱちりと大きな目がそれを凝視して。
「つかまえようとしてたのに。」
「ついていたよなあ。」
にこにこと笑う島津に、政宗はそっぽを向く。
膝の上に再び乗せて、ぽんぽんと頭をなでてやると、小さな声が尋ねた。
「なあ、さっきの詩・・・・・・・・・・。」
「武稜だど。」
そういって、先ほどの詩を口にのせる。
「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」
うっとりと、政宗は目を閉じた。
その詩の、意味などわからぬが。
響く切なさと、自らを包む世界が今、愛しかった。
「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」
桜の枝に寝そべって、佐助はそっと先ほど島津が口にした漢詩を諳んじる。
ひらひらと虚空に花びらと詩が吸い込まれていく。
枝にかかる月とそれらが夢幻のごとくに美しい。
清廉としたそれらは、血に穢れた我が身には厭わしくもあるが。
「・・・・・・・・・・ハナニアラシノタトエモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ、か。」
唇が、弧を描いた。
「まったく、生き急いじゃって。」
何て美しくおぞましいんだろうね。
お前達は。