異邦
夜空に定まりて、輝く月とは異なる美しさよ。
甘いような香りに腔をくすぐられ。
ひらり、ひらりと一片一片舞い落ちる花弁に誘われるように手を伸ばした。
淡い淡い紅色の。
ほのかに色づいた白色の。
伸ばした腕のその先で、擦り抜けるように宙を舞うそれが欲しくて。
ゆらりくるりと、舞うように、花びらを追いはじめた。
空を覆う夜の帳と同じ色の小さな身体が、誘うように舞い散る花びらに戯れかかる。
小さな足が地におちた花を踏み、瑠璃色の瞳はちらりちらりと花の動きに誘われて、きらきらと輝く。
ひらりひらり。
舞いおりて。
くるりくるり。
戯れる。
春の宵の、夢と現の狭間の。
「政宗ちゃん。」
「楽しそうだね。」
小さな円舞は、花びらと共に降り落ちてきた声にて、止められた。
彼は、ぴたりと動きをとめ、そちらを振り仰ぐ。
挑発的なまでに青い青い目が、桜の枝上から至極愉快そうな顔で自分を見下ろす若者の姿をとらえた。鮮やかな橙が、花には合わぬ色彩が、それでも溶け込むようにそこにある。
ピンとそれまで和らいでいた眦が吊り上り、警戒心も露な彼の様子に、若者は何が愉快なのか、楽しげな笑いを深くした。
へらりへらりと締まりなく笑うその顔を、彼はますます不機嫌そうに睨み上げた。
枝の上に寝そべるようにすわる男は、人好きのする顔をしていても、橙の髪からのぞく耳は獣のソレだ。時折ぴくりと、遠くの囁きさえも捕らえんとするように動く。
その後ろで幾つかに分かれた尾が見るものを惑わすようにゆらゆうらと揺れる。
人でないのは顕か。
齢百を経て妖力を得た野の獣。
この男を知っては、いる。
短い彼の生の中で、今になっては、最も長い付き合いになるのかもしれなかった。
だが、それはけして優しいつながりでも、慕わしいものでもなく。
ただ「知っている」という、その程度のものだ。
遠く北の地の野原で逢って以来、忘れかけた頃に姿を見せるようになった、それだけだ。
まったくといっていい程つかみ所のない気まぐれなくせに、不意に律儀なキツネ。
百をこえる年月を生きた化け狐の癖に、何故か人に化生した挙句、人間の侍に仕えているという。
一体何を考えているのか。
政宗には理解できないし、理解しようとも思わなかった。
「オマエがきたから楽しくない。」
「それはごめんねー。」
つん、とそっぽを向いてそう言い放つ彼に、キツネはまったく応えた風もなく、へらりとあの軽薄な笑いを浮かべ、「政宗ちゃん」と呼んだ。
軽佻浮薄、と評するものもいるかもしれないが、男の笑いは政宗にとっては虚だった。
実のない、とらえどころのない男の性質を端的にあらわすその笑い。
かといって、それを浮かべていない男というのも想像がつかず、結局のところ、何も言う気が起きなかった。
「一人で夜桜見物?」
「お前こそこんなところまで偵察かよ。足場も固めずに余裕のある事だな。」
「まあね。・・・・・・・・・ていうかまあ偵察というよりも、政宗ちゃんに会いに来たっていう方が正しいかも。」
「山帰れ。」
不意に色めいた声音で綴られたキツネの言葉に、彼の反応はにべもない。
戯れ事に乗ってやる義理もなければ、隙を見せる気もない。
キツネの本質を見誤ってはならない。
これは惑わすものだ。
無害な顔で忍び寄り、心も身体も惑わして、最後には食らう性質の悪い化け狐。
古より、どれだけの滅びを誘ってきたことか。
彼は、用がないならばこちらが去るとばかりに踵を返し、桜の枝に寝そべるキツネに背を向けた。
だがキツネの次の言葉に、政宗の足はぴたりと止まった。
「奥州でね、戦が始まったよ。」
予想通り。
そう口の中で呟いて、狐の唇が愉快気に弧を描いた。
あざといキツネは、彼が何に反応するか知り尽くしている。
それがわかりつつも、その言葉を無視して去るほど、その言葉は軽くなかった。
その事に自嘲を覚えながらも、ゆっくりと振り返る視線の先で、キツネは微笑んでいた。
哀れみと無常の入り混じったような、優しいと言えるのかもしれない笑みだったが、その情けのような何かが、居心地を悪くさせた。
嘲笑うソレの方がマシなのに。
どこまでもこの狐は残酷だ。
「オマエの主がせめるのか?」
「まさか。」
キツネは主を「真田の旦那」と言っていた。
キツネの国がどこで、それがどんな奴なのかも知らないが、キツネの特別であるのはわかっていた。何といってもキツネは主のため以外には指一つでさえも動かそうとはしないのだ。
つまりは政宗にとっての島津の爺と同じなのだろうと。
大事なただ一人。
「血族同士が入り混じっての戦さ。伊達、相馬、佐竹、最上・・・・・・・そろそろあそこも一つにまとまるか、それとも。」
大国に吸収されるか。
ぐるぐると頭の奥でキツネの言葉がまわり始める。
水の中にひっそりと垂らされた毒のように、不安が波紋を広げて滲んでいく。
あまりにも慕わしく、呪わしい地。
生まれ故郷でありながら二度と心を寄せる事はないだろうと。
それなのに思い出の美しさはどうしたことだろうか。
「ねえ、どうして、哀しそうなのかな。」
そうしてキツネは、彼の動揺を知りながらも問うのだ。
あらかじめ、政宗のすべての反応をわかっていながらも、何故なのか不思議なのかもしれない。
なぜならばこのキツネは知っている。
彼の昔。
幼き猫の妖しの、始まりの物語を。
移ろいやすい人の世においても、昔語りなどではなく。
いわんや、百歳を越えるキツネにはわずかばかり前の話だ。
「別に哀しいわけじゃねーよ。バカバカしいだけだ。」
「哀しんでる自分が?」
「全部。」
ああ、お前の言うとおり、哀しいのかもしれない自分も。
何かを期待しているのかもしれないし、すべてがどうでもいいのかもしれないキツネも。
美しいばかりの記憶も。
気の狂ったように同胞の血を啜りあう人間も。
「行くの?」
「帰って、寝るんだよ。」
「何処に?帰る場所?帰る場所ってどこ?島津の城?また捨てられるかもしれないのに?」
ねえ、帰る場所なんてあるの。
どうして帰りたがるの。
「・・・・・・・・爺は俺を捨てない。」
キツネに告げる彼の声は、彼が思っていたよりも小さな声だった。
囁きほどは弱くなく、声というほどには強くない。
案の定、枝上のキツネはバカにしたように哂った。
本当に嫌な奴だ。
「同じ事、前も言ったね。」
そうしてアンタは捨てられたね。
護った人間たちにね。
信じていたのにね。
可哀相にね。
あはは。
「爺は違う。」
「それも前に言ったよ。ねえ。」
「爺は違う。爺は違う。」
「ねえ、政宗ちゃん。」
「俺も、違う。同じ事、言っていても、相手が違うなら、同じ事にはならない。」
だから、違う。
子供のような理屈で、それでもそれが真実だと思うから。
震える声は潜む恐れだ。
キツネの惑わしに潜むのはキツネの思惑だけではなく、それは自らの心の声をも引き出して、揺らすのだ。
ああ。確かに自分は惑い、恐れている。
「そうだといいけどね。」
キツネの声は、心の中にある己の不安の声だ。
「捨てられたら、俺を呼びなよ。」
くるりと、今度こそ、彼は背を向け、歩き出した。
風に乗って、花の香りとキツネの声が届いても、もう振り返らなかった。
去っていく小さな背を見送って、キツネ――佐助は、困ったように微笑んだ。
少し虐め過ぎたかも知れない。
かわいそうなかわいそうな小さな生き物なのに。
それでも泣かないから、つい、いつも虐めてしまうのだ。
もしも。
泣いたら。
優しくしてあげるのになあ、と思い。
そんな自分の思いつきに笑いがこみ上げた。
手近にある桜の枝を手折り、くすくすと笑う。
もしあの子が泣いたら、自分は優しく優しく壊してしまうだろうよ。
異邦にあっても見上げる月も、この華も変わらない。